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気象台の語源とは?

江戸時代の気象観測  浅草天文台


中国大陸から伝わった暦法と日本最古の天文台

     日本の天文暦術は553年、百済の暦博士の渡来によって中国の暦法が伝えられた天文暦術とは暦を作ることと星占いが重要な仕事であった。
 日本の「時の記念日」は6月10日、「漏刻」(ろうこく)(水時計)が初めて時を打った『日本書紀』の記載、斉明6年五月条の「皇太子、初めて漏剋を造り、民をして時を知らしむ。」にちなんでいる。大陸から文化を導いた昔の日本では1日を12等分、12支で時を刻んでいた。671年4月25日(新暦6月10日)天智天皇の治世のことである。
 当時のものは容器に入れた水が下の容器に入り、その水量を基準にした簡単なものだった。
(写真は、奈良県明日香村で昭和56年12月18日に発掘された中大兄皇子によって創設された水時計の地設の基壇)

  • 占星台
  • 占星台2
     

     そして、日本最古の天文台は、『日本書紀』天武天皇3年(674年)条に登場する「占星台」で、当時の天文学の主たる目的の1つであった占星術を執り行う場所であった。


陰陽道と阿部清明

     中国では自然現象が陰陽説に基づき説明されており、例えば、雷は陰と陽がお互いに自らをぶつけ合うために生じるものであると考えていた。風や雨については、"風は天の気であり、雨は地の気である"。風は季節に従って吹き、雨は風に応じて降る。天の気は下降し、地の気は上昇するなどの記述があり、陰陽道は古くから日本にも伝わっていた。
     延喜21年(921年)陰陽道や占星術の名門の家柄に生まれた安倍晴明は、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授され、天文博士かつ陰陽師として活躍。

平安時代「都表如意輪法」で占いに使用される盤図
平安時代「都表如意輪法」で占いに使用される盤図。 中央に北斗七星が描かれる。


司天台と水運儀象台

   平安時代末期、子孫にあたる陰陽師、安倍泰親と室町時代初期の安倍有世はすぐれた陰陽師だった。
有世は足利義満から信頼され、その推挙で陰陽師では初めて公卿となった。
   有世の子孫は室町時代後期頃から土御門家を名乗り陰陽道のみならず神道や暦などの分野にも大きな影響力を持つ事になる。
   中世以後、土御門家が京都の梅小路に天文台を設けて「司天台」とよんだ。以後代々土御門家は、江戸時代まで「天文方」(役職名としては「天文職」)と朝廷の陰陽寮の要職を継承していった。
   平安時代末期の寛治6年、中国では北宋時代の1092年に古都開封(かいほう)に現代のゼンマイ式時計と同じような仕組みで水運儀象台(時間の誤差が出ないような工夫がされ現代の時計のルーツとなった)が作られた。
   水運儀象台は時計と天体観測機器が一体になった天文台で、水車を規則正しく回転させて時を告げるだけでなく、星や太陽の動きを調べて一年の長さを測っていた。現在、下諏訪町に復元されたものがあり、その大きさは高さ12m、土台の底辺の長さは一辺が6mで、一般に公開されている。

水運儀象台

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