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気象台の語源とは?

江戸時代の気象観測  浅草天文台


江戸時代の天文方

     貞享元年(1684年)に渋川春海が貞享暦を作成し、従来の宣明暦から切り替えると、幕府はそれまで、朝廷の陰陽寮の所轄であった「天文方」を寺社奉行のもとに設置し、同年の12月1日に春海が「天文方」に就任、翌貞享2年(1685年)渋川春海は牛込藁町の地に「司天台」を設置した。以来、編暦作業の実務は幕府に移り天文方で行われた。この頃、貝原益軒は、中国の二十四節気、七十二候の李節学的知識を日本の実状に合った形に直し、「日本歳時記」(貞享4年、1687)を著わした。


浅草にあった天文台

     渋川春海は「司天台」を元禄2年(1689年)に本所二つ目の邸宅内に築いたが、低地にあったため、同14年(1701年)に神田駿河台の新宅に移転する。春海の没後、延享3年(1746年)に幕府は神田佐久間町に「司天台」を置いたが、宝暦の修正暦の作業が10年ほどで終ると撤去した。ついで明和2年(1765)に牛込袋町(現在の新宿区袋町の日本出版クラブのあるところ)に移り、このときは暦が出来た後も存続したが、木立が茂り観測が出来ないということから、天明2年10月(1782.10)浅草片町裏浅草天文台(頒暦所とも)に移った。この時「天文台」という呼称が初めて採用された。

  • 測量台の図
    測量台の図 「寛政暦書」35巻35冊のうち、巻十九から
  • 浅草鳥越堀田原図
    浅草鳥越堀田原図

     天明2年(1782)10月から幕末まで存続した浅草天文台は、葛飾北斎の富獄百景の一つ、「浅草鳥越の図」に描かれていて有名。「司天台の記」によると、地所内には周囲約93.6m、高さ3丈(9.3m)の築土した台があり、築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。台上に簡天儀(天体の時角と赤緯を測定する装置、渾天儀の内、黄道環をとりさったもの)、象限儀(天体の高度を測定する装置)を据えた。張り出しの舞台は地平近くの日月食を観測のための場所。

「富嶽百景」浅草鳥越の不二図
「富嶽百景」浅草鳥越の不二図(千葉市美術館所蔵)

浅草天文台で測量学を学んだ伊能忠敬

     寛政7年(1795)この浅草天文台で伊能忠敬(51才のとき)は、江戸に出て幕府天文方高橋至時に天文学(暦学)・測量学を学んだ。
     56才以降、弟子間宮林蔵と日本地図作成のため、蝦夷地や東北の測量を始めるが、そのきっかけの一つとなったのが、地球の大きさ(緯度1度は、およそ111kmであることを後にあらわす)を天体観測を利用し計算することを、師匠である高橋至時と論じた際、基準とする距離が短過ぎては正確な値は求められない。江戸と蝦夷地ほどの距離を元にすれば推測も可能であろうと言われたことであった。
     後述する気象観測の知識を伊能忠敬は、このとき学んでいると思われるので、測量の際に気象観測もされたに違いない。

伊能忠敬

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