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小田原のアメダス


小田原市史  県立小田原高校で始まった明治の気象観測

    小田原市 編集『小田原市史 別編 自然』 2001(平成13)年12月20日 発行 執筆者 芦川 駿(元茅ヶ崎市立中
島中学校長)
によれば、1896(明治29)年、横浜に「神奈川県測候所」が発足し、 1 日6 回の気象観測を行ったのを
期に、各地の気象観測が行われ、小田原については、町役場と県立小田原中学校(現県立小田原高等学校)の
観測データが、1911 (明治44)年からの記録が残されていたという。
 しかし1923(大正12)年9 月1 日の関東大震災により、県下の大半の測候所は被害を受けたため、以後は廃止
や欠測が続いた。小田原でも1922(大正11)年から1924(大正13)年までが欠測となっており、翌1925(大正14)年に
再開したが、なぜか1926(大正15)年以降は中止となっている。

昭和期の小田原の気象観測
   太平洋戦争前から戦中にかけては、首都東京の防衛として、千葉県九十九里浜と相模湾岸地域が重視され、
小田原では第一尋常高等小学校(旧市立本町小学校、現市立三の丸小学校)で1 日1 回定時の気象観測が行われた。
   そのデータは月毎に横浜測候所に報告されたが、関係資料は、終戦の際に学校の重要書類とともに焼却されて
しまった。戦後、1947(昭和22)~1970(昭和45)年にかけては、市立城山中学校気象部による観測が行われている
(1 日1 回の定時観測)。また昭和30年代半ば(1960 年頃)には、規則により地区の気象観測を市町村消防署に
義務づけられた結果、小田原市消防署で自動観測機器による観測が開始されている。

  • 城山中学の気象観測 小田原のアメダス(私立城山中学校)

小田原市立城山中学校の気象観測(1947年)      小田原のアメダス(市立城山中学校)(1975年)

小田原市立第一中学校(城山中学校)気象部
   芦川 駿氏は1947(昭和22)年、新制中学校小田原市立第一中学校(後に市立城山中学校に改名)に理科の教師として赴任した。
  その前まで、小田原市本町一丁目にある小田原第一尋常高等小学校(旧市立本町小学校の前身、現市立三の丸小学校 三の丸という名の由来は1822(文成5)年に建てられた藩校・集成館の跡地で、 城内三の丸にあたることから。児童の数が減ったことから旧城内小学校と旧本町小学校が合併して生まれた。)の教師として1940(昭和15)年、師範学校卒業後から働いていた。 第一尋常高等小学校は丁度開校40 周年に当たり記念事業として中庭に百葉箱を設け小田原の気象観測を始めていた。
   当時小田原には気象観測をしている施設は無かったので「東京管区気象台横浜測候所」(現横浜地方気象台)から観測員に任命され 「横浜測候所区内小田原観測所」の認定を受け、4 月1 日からの気象観測結果を月々横浜測候所に報告する役目をになってきたのだった。
  中学の教師となってからは、戦後の時期で校舎は勿論、机、椅子から教材、教具一切無から始めなければならなかったという。
  幸い、仮の校舎は今まで勤務していた本町小学校(旧第一尋常高等小学校) の一部を借りていたので長年観測を続けいた 気象観測の器材を借りて生徒と共に気象観測を行い、それを中心に理科の授業を組み立て、自然理解の手がかりを得たいと考え新制中学校開校の日の5月1 日から又気象観測を再開した。
小田原一中(市立城山中学校)気象部の誕生日である。
  その後、第一中学校は駅裏の高台の現在の城山中学校の地に移り、第一中学校が城山中学校に改名された。そして露場も新校舎の端に作られた。
  この時酒匂川の川尻にあった海軍気象観測所が廃止されてそのままになっていた百葉箱を始め器材が見つかったので、これらを譲り受けリヤカーで学校に運んだ。
   器材は露場に据え付けられ、数日間かけて修理も行って、ここに一中(城山中学校)気象観測所が立ち上がった。
   こうして本町小学校の観測を引き継いだ観測拠点で気象観測が始まった。
   当時は戦後で国の気象観測体制も整備されていなかったので、この城山中学校観測所は小田原地方の唯一の気象観測所で、日々の観測結果は月表にして市役所を始め農業会や漁業組合いに送られ利用された。

        
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                  昭和22年4月月表                                          昭和22年4月月表拡大図 

実った「継続は力なり」

  横浜地方気象台の記録には、1952(昭和27)年4月~1958(昭和33)年7月の間、篤志観測所(区内観測所)として城山中学校(小田原市緑町)が正式に登録されている。
 1947(昭和22)年4月から1949(昭和24)年7月までは、毎日午前10時に定時観測をし、1950(昭和25)年1月からは、毎日午前9時の定時観測の記録が継続して残されていった。(写真の気象観測15年累年気象表 城山中学校」より
  戦後しばしば相模湾西部に上陸し甚大な被害を及ぼした台風が接近すると、生徒たちはイキイキとして徹夜で観測し、時々刻々の情報を市や警察に流したり、洒匂川や早川の増水時には河口の人々の避難などにも役立ったとある。
  これら生徒たちの日々の観測の努力が報いられて、市長や農業会からしばしば表彰され、又、NHKを始め新聞・雑誌に「子供の気象台」「中学生のお天気相談所」等々取り上げられて、城山中学校の名声を高めた。
  長年の地道な観測の努力が実った結果で「継続は力なり」を身を以て生徒たちは体験した。

『気象観測15年・累年気象表』『小田原の気象』『気象カレンダー小田原の気象暦』の発行
 1960(昭和35)年4月、私 伊東譲司は、この城山中学校に入学し、気象クラブに入部した。
    思えば、私の人生のスタートラインは、本町小学校の5年生の時、気象観測をクラブ活動で始めたことだった。
 私の人生を決めることになった恩師との出会いはわずかの期間であったが、運命を授けてくれた芦川 駿氏は、1961(昭和36年)9月他の中学校に転任した。
  そしてその後を託された理科教師と生徒たちにより、小田原の気象観測は引き継がれていったのだった。
  1963(昭和38)年の開校15周年記念事業として、今まで観測した小田原市立城山中学校の観測結果をまとめて世に出すこととなった。
  当時の気象クラブの生徒と理科教師全員で1947(昭和22)年から1961(昭和36)年までの観測データを『気象観測15年・累年気象表』『小田原の気象』『気象カレンダー小田原の気象暦』の3冊にまとめ、1963(昭和38)年7月に出版された。
 プロフィールにも書き込んだ当時の思い出は、1962(昭和37)年の中学3年の夏休みの間、タイガー計算機のギヤーを回して毎日を過ごしたことであった。
  翌1963(昭和38)年、小田原高校に進学後、印刷・製本された『気象観測15年・累年気象表』などの完成を祝う記念セレモニーが執り行われた。
 その席に私も招待され、市長からの感謝状が1年後輩の手に渡されるのを目にした思い出である。
 万感の思いが詰められた1冊は上の写真の『気象観測15年・累年気象表』で、今も手元に大事に保存されている。
  残念なことに1970(昭和45)年1月、城山中学校が火災にあい、1947(昭和22)年からの貴重なデータと施設はすべて灰に帰したという。
   観測活動も停止、気象クラブも廃部となって城山中学の気象観測の歴史には、あっけなくも終止符が打たれた。
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が、しかし、気象庁のアメダスが各地にあった区内観測所から引き継がれたのと同様に、長年の気象観測の実績が認められ、
1975(昭和50)年3月、城山中学校の地に小田原アメダスが設置され、気象観測の歴史は引き継がれていった
のだった。

城山中学校     城山中学校

 アメダスに引き継がれた気象観測の歴史
気象庁の記録より 城山中学校にアメダスが設置された記録(抜粋)
1975年3月15日 雨量観測機器設置(小田原市立城山中学校:小田原市城山3-4-1)
1975年5月16日 観測開始
1975年6月1日  1974年度開設アメダス観測所(小田原、平塚、日吉、相模原)正式運用開始
1978年1月17日 三要素付加、四要素(JMA-75型有線ロボット気象計)設置、同日運用開始
以上の記録のとおり、横浜地方気象台が管轄していた神奈川県のアメダス四要素(風向・風速、 気温、降水量、日照)の観測は、 1978年1月17日から始まったのであった。小田原のアメダスの観測データはこちらから。
2002年11月1日 第56回管区創立記念日において城山中学校を管区台長表彰(積雪の委託観測終了)
2010年3月23日 城山中学校での観測終了(統計は接続、風向風速計の高さ9.5m→移設後10.0m)
2010年3月24日 酒匂川流域下水道右岸処理場へ移設(城山中学校から北へ約2.5km)、データ取得開始(管理委託開始)
  統計が接続されたことにより、ここ扇町の観測データは、観測開始年月日は、降水量は1975年5月16日、四要素観測は1978年1月17日となっている。
2010年6月1日 気象記念日において城山中学校を長官表彰(多年にわたる気象観測業務の協力を終了-35年)

     あとがき
 小田原の気象観測の足跡には、芦川 駿氏と城山中学校の生徒たち、またそれを支えてきた理科教師がいたことを忘れてはならない。
  地道な定時観測を学業と両立させるのは至難の業と言えただろう。実際に、修学旅行や体育祭などの学校行事のため欠測もあったのが事実である。
  芦川 駿氏とは、運命的な出会いがあったと感じている。
  自分自身が、小田原に育ち、本町小学校、城山中学校、小田原高校と歩んでいくことになったが、すべてが小田原の気象観測の歴史につながる場所で
あったことは、不思議な因縁を感じるとともに納得できる気がしている。
   余談となるが、私が、小田原高校でクラブ活動を始めたときは、気象部がまだなかったので、1964(昭和39)年に小田原高校物理部の中に気象班を立ち上げ、 当時テニスコートの上にあたる「上々庭」と呼ばれる場所の北側に露場を作り気象観測を始めた。
   その後気象庁に入り予報官の道を歩んだ後の67歳の折、小田原高校の歴史をまとめた本にこのことが記されていることを知り、感慨もひとしおであった。
  小田原の気象観測の歴史を調査するとともに、その中心にいた芦川 駿氏に心から謝辞を述べたい。
  また、実際に、横浜地方気象台の友達たちがこの調査に参加してくれた。 この場を借りて、森洋氏、島田修氏にお礼をさせていただく。

                                                                                                                                                                                                伊東譲司

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